るる くんです

AI生成画にハマりかけてるおじさんです。 おじさんだって可愛くなれる

自身は何者?

私はGIDなのか。。?

 女装というものに興味を持ち、常習的じゃなくても女性の服や

ウィッグ着用を始めたのは15、6の頃からと思います。

しかし そのさらに前に女の子のものとしてのパンツを履いたのは、

幼少期まで遡ることになります。

 

事情によりシングルマザーとなった母は、今で言う児童養護施設に私を預け、

多分ですが関西方面へホステスのような水商売に赴いたのです。

(そのあたりの経緯等はほぼ判らぬままで、前後の状況雰囲気です)

具体的には私が5~6歳後半くらいの期間だと思います。

 

 その養護施設でその時代のせいなのか知りませんが、

入浴時に(いっぺんに10人くらい入ってたと記憶です)

何故だか全裸で入浴ではなく、大きな湯舟に浸かる際は代えのパンツを籠から

選んで履いて入るわけです。たしか先着順で自分で選びます。

女の子の、それもナイロン系のものは気持ちよくて人気なんです。 笑

すぐにそのタイプが先に無くなり、次も女の子用の綿パンツです。

入浴はもちろん男女別の浴場です。 男の子たちのお風呂で人気だったのが、

所謂可愛い系な おパンツだったわけです。

そこの施設では、そのくらいの ”女性もの" 関わりでしかありませんが、

いまでも頭の隅に残ってるキッカケとなった出来事だったかもしれません。

 

その施設を出たのは小1の2学期くらいだったと思います。

迎えに来てくれた母は綺麗な装いで、フォーマルな入学・卒業の母親スーツ姿でした。

仕事柄、そのときの母の髪型は上の私のアイコンのようなアップスタイルでした。

 

園を出ての落ち着き先は、少しのい間転々としてた記憶ありますが、

内縁の夫ともそこで顔合わせとなって、3人での生活が始まったのでした。

長くは続きません。アパートでの暮らしも私が小3になる前に終わり、

私だけまた、伝手を頼って老夫婦のお宅に1年半養育で預けられました。

じつは私にとっては一番愉しかった小学生時期だったと思います。

そしてそこでの暮らしの中では、”キッカケ”などは何もなく、

普通にそして初めて、女の子から「すきです」みたいな手紙ももらいました。

 

 母らと再び一緒に生活始まったのは、小4後半から中学に上がる前までです。

その頃も母は生活のため水商売続けてて、それも割と高級なクラブホステスとして

やってたようです。

週に2, 3回は美容室セットしてから一旦家に戻って、タクシー(ハイヤー)で、

出勤してましたね。

美容院帰りの母は、ややキツめにも思えたヘアースプレーの香りの記憶があります。

そして定番は夜会巻きのヘアーで、稀にはゆるふわカールセットした

ドレス姿だと思います。

 

そのあたりの母の仕事のための着飾りや、美的要素が関わってたのも

自分の中に植え付けられた女性美としてのキッカケでしょう。

 

すこし長くなりました。 小学6年までの私の経緯です。 

読まれた方ありがとうございます。

中学以降はまた、早めに書くようにいたします。

自分を見つめ